桂離宮の美を世界に広めたブルーノ・タウトによる『ニッポン』の全訳です。
【目次】
序説──何故に私はこの書を書くか
敦賀
伊勢
桂離宮
天皇と将軍
生ける伝統
ニューヨークヘ?
否──桂離宮を経て!
【解説】
日本の旧き良き文化に傾倒し世界に広めた外国人としては、小泉八雲が知られていますが、建築家だったタウトもまた、日本の建築や工芸の美を見出しました。それは、この『ニッポン』のほか『日本美の再発見』『日本文化私観』などで述べられています。
単に鑑賞するだけでなく、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品も発表しています。
ナチスからの迫害を逃れるために、亡命先を探していたときに、たまたま日本の建築会から招聘をうけたという偶然による来日、滞在でしたが、来日の翌日に案内された桂離宮の美に衝たれたのでした。
神戸や銀座などの「近代化」されつつある街は、タウトにとっては俗悪に見えたという感覚では、小泉八雲と共通しています。
以下、ウィキペディアから抜粋します。
「ブルーノ・タウト(1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。鉄のモニュメント(1910年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。
晩年はナチスの迫害により、亡命先を探していた際に、上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会から招聘を受け、1933年に来日し3年半滞在した。当時の日独関係上、日本政府から公的な協力が得られなかったことから、しかるべき公職が得られず、トルコ政府の招きにより転地し、当地で没した。
来日の翌日、桂離宮へ案内された。桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。当初は京都大丸当主の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)に着任。その後は井上房一郎の招きにより、高崎に移り、約2年間を高崎の達磨寺境内の洗心亭で過ごした。群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935年に東京・銀座に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。日本では建築方面の仕事に、余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の商人・日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。
1936年に近代化を目指していたトルコのイスタンブル芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブルに移住。首都であるアンカラのアンカラ大学文学部など教育機関建築の設計、イスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍した(そのほとんどは現存している)。1938年に長年患っていた気管支喘息のため死去した。最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だった。タウトの遺体はエディルネ門墓地に葬られた。」
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