【復刻版】プリボイの「バルチック艦隊の遠征」―原題「ツシマ 遠征編」(上脇進訳)(響林社文庫)Kindle版

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【解説】
 日露戦争における運命を分ける一戦となった日本海開戦とそれに至る経過を、従軍したロシアの水兵の視点で活写した名著「ツシマ」の遠征編と敗走編。「バルチック艦隊の遠征」「バルチック艦隊の潰滅」の2冊。
プリボイは、1877年に貧農の息子として生まれたが、1904年に日露戦争が勃発し、戦艦「アリョール」の水兵となった。「喜望峰、マダガスカル島を廻っての太平洋への航海は距離18000海里、期間は8ヶ月に及んだ。目的地のウラジオストクに近づいた1905年5月27日、彼の属するバルチック艦隊は対馬沖で日本の連合艦隊に迎撃された。海戦はロシアの完敗に終わり、5000人近いロシア兵が戦死、彼の乗るアリョールは日本軍に降伏し、日本軍の捕虜となった。
日本の熊本市大江鹿渡練兵場にあった捕虜収容所に居る時に、彼は自らの特異な体験を綴り始めた。自分の体験のみならず、同じ収容所に居る別の艦の生き残った水兵にもインタビューし、その内容は海戦全体を概観するものとなった。1906年にロシアに帰還。ペンネームで海戦についてのエッセイを新聞に投稿した。ところがその内容がロシア海軍の恥部を赤裸々に描いたものだったので、当局に睨まれることになった。こうして彼は1907年にフィンランドを経由してロンドンに亡命した。亡命先では鍛冶屋や製本職人として生計を立てた。のち子供の頃の夢通り水夫となり、フランスやイタリア、スペイン、北アフリカで生活した。
自己紹介の手紙を送った作家マクシム・ゴーリキーの勧めで、その亡命体験記を新聞に投稿。次いでカプリ島に亡命していたゴーリキーを訪ねた。カプリ島に滞在していた1912年から翌年にかけて、海についてのリアリズム短編小説を書き、最初の本を書き上げた。別のパスポートを得て1913年にロシアに戻ったが、彼の処女作は検閲を受け、1917年にようやく出版された。翌年に始まる第一次世界大戦中は妻と共にゼムストヴォ(地方自治機関)の病院で働いた。1914年から雑誌に定期投稿するようになり、この時初めて「ノヴィコフ=プリボイ」という筆名を使い始める。
ロシア革命後の1920年、彼の主著となる「ツシマ」の完成にとりかかる。第一部「航海」は1932年に、第二部「海戦」は1935年に発表された。日本海海戦について概観した書物としては(公刊戦史を除けば)初めてのものだったが、各方面から批判を受けた。ノヴィコフ=プリボイは一般の水兵を英雄的に描いたのに対し、ツァーリズムの支配層である将校や将軍を無能として描き、敗戦の責任があるとした。とりわけ艦隊司令官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキーを敗戦の最大の責任者として痛烈に批判している。実際は劣悪な装備や新鋭艦と老朽艦の混在など、ロシア海軍の体制に問題がありロジェストヴェンスキーや艦隊の将校の個人的努力ではどうにもならない側面もあった。ソ連邦時代にこの本は社会主義リアリズムの作品と評価され、また今日でも日露戦争を考察する際のロシア側資料として、その後のこの戦争の叙述に絶大な影響を与えており、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」もその一つである。
晩年もロシア海軍に関する論文を数多く執筆したが、「ツシマ」ほど反響を呼んだ作品はなかった。1941年、「ツシマ」によりスターリン賞を受賞。最後の作品は「艦長」だった。モスクワの自宅で死去した。ヴォルガ河で運行されている客船の一つに彼の名前「ノヴィコフ=プリボイ」を冠したものがあるという。」(ウィキペディアより)

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形式
電子書籍(リフロー版、固定版) 電子書籍(版面固定型)
カテゴリー
赤版(復刻固定型) 響林社文庫
著者
プリボイ
題名
【復刻版】プリボイの「バルチック艦隊の遠征」―原題「ツシマ 遠征編」(上脇進訳)(響林社文庫)Kindle版
本体価格
¥250

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