【解説】
太宰治は、1938年(昭和13年)9月に、太宰の面倒をみていた井伏鱒二が滞在している河口湖近くの御坂峠にある土産物屋兼旅館の「天下茶屋」を訪れた。そこで、長編「火の鳥」を執筆すべく、3ヶ月間逗留することとなった。その際、井伏は太宰の後見役的な中畑慶吉らからの内々の依頼により、都留高女の教師だった石原美知子との見合いの場を設けた。太宰はその場で結婚を決意し11月には婚約、翌昭和14年1月に結婚に至った。
本オーディオブックに収録した「富嶽百景」「富士に就いて」「九月十月十一月」は、その天下茶屋逗留時の事々を描いた作品群で、太宰の結婚前後の気持ちの穏やかさが作品ににじみ出ている感がある。「富嶽百景」では、茶屋の娘さんに、太宰が執筆した原稿を毎朝揃えるのが楽しみだと言われて励まされた気持ちになる。結婚に際して津軽の実家から金銭的援助がないことが分かって、美知子と母親の家に出向いてそのことを説明したところ、「あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」と言われ、太宰はしばらく呆然とし、眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思った。 「I can speak」は、御坂峠が寒気堪え難くなって甲府の下宿屋に移った際のことで、すぐ前の製糸工場の女工の弟と思しき若い酔漢が、工場の窓から身を乗り出している姉に向かって、自分はいい子だと言ってほしいと切々を訴える。その言葉は、苦しいくらいに太宰を撃った・・・